自己犠牲は悲しみしか生み出さない。
自己犠牲は美しい的な文化ってありますよね。
でも僕は嫌いです。なぜなら自己犠牲の先には悲しみしか待ち受けていないからです。
美しい自己犠牲の代表例 子どもを想うお母さん。
ちょっと想像してください。
食べ物が満足にない時代のとある民家で、お母さんが子どもに「私はいいからお前がお食べ」とパンを渡すワンシーン。
子どもも、お母さんが何にも食べていないのを知っているからお母さんに譲るけど、食べてはくれない。
「お前が食べているのを見るのが母さんは幸せなのよ。」と差し出されたパン。
仕方なく黙って受け取って目に涙をいっぱいに溜め込んでパンを頬張る少年。
映画とかなら感動的なワンシーンになるのかもしれませんが、これってどうなの?と思うんですよ。
お母さんサイドからしたら息子のお腹が少しでも満たされればホッとします。
でも、息子はたまったもんじゃないと思うんですよ。
母親は自分以上に何にも食べてないのに、自分がいるから余計食べることができないと自分を責めてしまう可能性もあります。
あの涙は、母に感謝する気持ちじゃなく自分の無力さを痛感して出たものな気もします。
対するお母さん。
食べ物がないのは、時代背景とか色々あるから仕方ないと思います。
でも、自分全く食べずに少しでも息子にっていうのは、
満足に食べ物をあげられない自分に対する罪悪感を払拭しようとしてるよね?って感じてしまうんですよね。
そこは少しでもいいから食べとけよ!!っていうのが素直な感想です(^_^;)
もし、その後お母さん倒れでもしたら息子罪悪感マックスですよ´д` ;
少ししかない食べ物をお互いに譲り合うのってとても素敵なことだと思います。
でも、自分の気持ちだけじゃなくて相手の気持ちも組んで一緒に結論を出せるパートナーシップが築けるのがいいですよね。
少ないパン一緒に食べて
「おいしいね。また、いっぱい食べれるようにお母さんバリバリ働くわー!!」
の方が見てて気持ちいいですわ( ´∀`)
まとめ
自己犠牲で満足するのは自分だけです。
それどころか自己犠牲に感謝してもらえないと、自分すら満足できません。
誰かを犠牲にするんじゃなくてせっかく人数いるなら、
みんなで考えて、みんなを活かし合う方法を模索していきたいですよね。